境内の木々も徐々に色づき、秋が深まっていることが日に日に感じられます。気づいたら今年もあとわずかですね。
現在、観音ミュージアムでは、年末年始の「福の神展」に向けて準備の真っ最中です。今回は展覧会に関連して、長谷寺の大黒天信仰についてお伝えしたいと思います。
さて、長谷寺の大黒天は応永19年(1412)銘を持つ神奈川県で最古の大黒天像といわれています。この時代はまさに大黒天信仰が盛んになり、全国に広められた時期で、当像は関東へと大黒天信仰が伝わっていく変遷をたどる上でも貴重な像です。
当像に関する記録は数少ないのですが、大黒天の信仰の様子がよくわかる昭和の記録があります。
昭和40年~50年代にかけて、特定の日に集まって大黒天を信仰する集まりが組織されました。長谷寺で確認されるのは、「甲子講」(きのえねこう、かっしこう)と「福聚講」(ふくじゅこう)と呼ばれる講です。
元長谷寺学芸員皆川祥子氏の論文(『鎌倉』26号、昭和51年(1976)発行)には、当時の住職から聞いた甲子講の様子が書かれています。
「横須賀市の旅館運営の人達が中心となり、1月・5月・9月の「甲子」の日、講を開く。この日、50~60人の講中の人達は法要を行い、商売繁盛、家内安全を願ったあと会食をしながら、三味線に合わせ歌ったり、時には福引をやり(ここでは室町時代に大黒の槌がわれると酒が溢れたという福引の起源を伝えている)半日大いに楽しんでいく。」
とてもにぎやかな講だったようですね。
ちなみに「甲子」の「子」は十二支の子(ね)のことです。ネズミは大黒天の使者といわれています。というのも、大黒天と同一と考えられていた大国主命(おおくにぬしのみこと)が殺されそうになった時、ネズミが現れて救ってくれたという故事から来ています。
「横須賀市の旅館運営の人たち」とありますが、昭和28年(1953)に横須賀中央旅館組合から大黒堂の大幕が奉納された記録が残っており、この頃から昭和50年代までは横須賀の旅館関係者の方々から篤く信仰されていたようです。
なぜ、横須賀の旅館関係者の方から信仰があったのかということですが、横須賀市長井に長谷寺の御本尊が流れ着いた伝承が関係しているようです。御本尊を安置する仮屋を建てたという「仮屋ヶ崎」と呼ばれる地名もあり、昔から横須賀からお参りに来る信者さんもいらっしゃるそう。
また、大黒天は元々インドの戦闘神だったのですが、時代を経ると厨房の守護神としての性格が強調され、寺院の台所に祀られるようになりました。日本にもそのように伝わり、ここから、飲食業界や旅館の関係者が大黒天を商売繁盛の神として信仰するようになったと考えられます。
「福聚講」は不明なことが多いのですが、長谷地域周辺の飲食関係の仕事を営む方が集まって大黒天をお参りしていたそうです。また、その流れで、うなぎ屋を経営する人々が集まり、うなぎを使者とする虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)をおまつりした講もありました。その名も「無難儀講」(うなぎこう)。こうしたお店は飲食を営む都合上、生き物の殺生はまぬがれません。そのため、生き物の供養を行う「放生会」(ほうじょうえ)も開催されたそうです。
現在はこうした講は行われていませんが、当時は庶民の自発的な信仰が盛んに行われ、信仰と同時に業界内の交流の場としても機能していたことがうかがわれます。
江戸時代より観光都市として栄えた鎌倉。こうした土地柄、必然的に飲食関係の店が数多くつくられてきました。今や世界中の方からお参りされる大黒天ですが、少し昔を振り返れば、周辺地域の人々の切実な願いをかなえる仏としての姿が浮かび上がってきます。
学芸員 U