夏の企画展のみどころ「造仏聖 円空のほとけさま」

開催中の夏の企画展「カワイイKawaiiほとけさま~素朴な造形の世界~」では、江戸時代の造仏聖として知られる円空による護法童子像がご覧いただけます。

《護法童子像》円空作 江戸時代 17世紀
《護法童子像》円空作 江戸時代 17世紀

そもそも、円空ってだれ?・・・と思われる方も多いと思います。
円空(1632-1695)は、江戸時代の寛永九年(1632)に美濃国(現在の岐阜県)に生まれた僧侶。
奈良の大峰山(おおみねさん)、滋賀の伊吹山(いぶきさん)、加賀の白山(はくさん)などの霊山で修験道の修行を積んだといわれます。その折々でお世話になった周辺村落の住人に対し、宿や食事のお礼、人々の祈りのために仏像を彫り続けました。

造像の最も早い例は、円空が32歳のとき、寛文3年(1663)の岐阜県郡上市美並町神明神社の三体です。その後、近畿地方から北海道までの諸国を遊行して、「造仏聖」として活躍しました。造った仏像の数は、なんと生涯に12万体ともいわれ、現在までに5000体以上が知られています。

どうしてこんなにたくさんの仏像をつくったのだろう?・・・と疑問に思いますよね。
円空は、幼いころに母を洪水で亡くしていて、その母を弔うために造仏をはじめたとされます。そして、旱ばつや貧困で苦しむ農民のために祈り、庶民の救いを願い、仏菩薩や各地の神々を広く供養するため、たくさんの仏像を彫りだしていきました。
円空の造った仏さまは、その多くが、現在でも村落の人々に大切にされています。
昔から人々の近くに寄り添っていた親しみ深い仏さまだったのでしょう。
なんだか仏さまとの距離の近さを感じてきますね。

では、《護法童子像》を見ていきましょう。

円空 護法童子像2
円空 護法童子像3

大きさは30センチほど。頭全体を逆立てた髪でおおい、胸の前で手を合わせる姿。お顔を見ると、切れ長の目がスッと引かれ、目を細めて笑っているようです。目、口、鼻が適度に簡略化されているので、穏やかな表情が感じられます。細かい部分は大胆に省略され、木の素材感を生かした荒い彫りが特徴的といえるでしょう。

このような“木”を全面に生かした造形の根底には、霊山での修行で培った自然への畏敬の念があったのだと思われます。時にはねじれたままの木を使って観音像を彫ったり、また時には10センチ程の木っ端に刻まれたり。自然に逆らうことはなく、素材の良さを最大限に引き出した彫りをみせるのです。ちなみに、《護法童子像》も少し右向きに造られています。
円空は、木そのものの中に神や仏が宿っていると考えていました。だからこそ、手を加えるのは最小限にして、木の持つ質感や姿、形をそのまま使ったのです。

さて、造形の大胆な省略や木の素材を意識した荒い彫りの造像は、円空以前から脈々と受け継がれてきたものであると示されています。その造形は、平安時代から続く神像彫刻に見ることができるのです。神像は、時代を通して一木造りが中心で、時代が下るにつれ、ひざ前を縮小したり、衣を省略したり、造形の簡略化が進みます。これは、造形力の衰退ではなく、神が神聖な木に降臨するという観念によるものだと考えられます。素材そのものが神としての役割を果たしているのです。

このように考えると、円空の仏さまにみられる造形の省略は、神像彫刻の伝統的な表現を踏襲するものとみなされるのです。つまり、古代より日本人が持ち続けてきた木への信仰、その何千年もの伝統の上に円空は位置づけられるのでしょう。円空が生まれ育った美濃は、白山をはじめとする山岳信仰で名高い土地でした。そのような環境下で木への信仰も培われ、神像に触れる機会も多くあり、円空の造像基盤ができていったのだと考えられます。

でも、そんな研究者の話など忘れて、ただただ、仏さまの前にいると、円空の温かさが伝わってきます。
日常の愚痴なんかもそばで聞いてくれそうな感じがしてくるのです。
今日も失敗しちゃったな・・・なんて言うとなぐさめてくれそうな。

あなたは円空の仏さまに何を語りかけますか?

学芸員O