観音ミュージアムは、10月18日で1周年を迎えることができました。
この1年間でたくさんの方々にご来館いただき、感謝申し上げます。
ミュージアムは日々成長中の2年目ですが、その大本である長谷寺宝物陳列所(はせでらほうもつちんれつじょ)ができたのは、なんと明治28年(1895)、今から121年前のことでした。ちなみに明治28年は、奈良帝国博物館(現在の奈良国立博物館)や帝国京都博物館(現在の京都国立博物館)が開館し、日清講和条約(下関条約)が調印され、夏目漱石が松山中学校の教員になった年でもあります!観音ミュージアムのルーツは意外と古いのです。
さて、明治時代の長谷寺がどんな姿だったかというと・・・
こんな感じです。
下境内階段と上に見えるのが観音堂 (階段と灯籠の位置は現在とほぼ同じ)
現在
同じアングルで撮ったもの。下境内から観音堂を見ることはできません。
本尊十一面観音像を祀る茅葺き屋根の観音堂は、明治時代、現在よりかなり前の位置に建っていました。この観音堂は、大正12年(1923)の関東大震災で大きく崩れてしまったのですが、その時中に祀られていた本尊は、運よく額が梁に支えられて大破は免れたようです。
昭和5年(1930)に観音堂の再建が始まり、その後の戦争で工事の中断を余儀なくされ、ようやく完成したのが昭和18年(1943)。しかしこの時できたのは、本尊が祀られた内陣だけでした。翌年の昭和19年(1944)に拝殿(外陣)は取り壊され、内陣の前は空き地になっていたようです。拝殿(外陣)が再建されたのは、昭和30年(1955)のこと。全てが完成したのは関東大震災から実に32年後で、それほどの大事業だったことが分かります。
現在の観音堂は昭和60年(1985)に再建された比較的新しい建物ですが、今も内陣部分は昭和18年の建築を使っています。
それでは、宝物陳列所の話に戻りましょう。
宝物陳列所については、明治・大正の資料がほとんど残されていないため、その時代のことははっきりとわかりません。ですので、昭和9年(1934)に神奈川県社会教育課へ提出した「教育的観覧施設に関する調査票」から当時の様子を探ってみましょう。(主要部分のみ抜粋)
職員数 三名
開館日数 三六五日
前年度観覧者数 十万 内軍人一万 学生五万
観覧料 一人五銭 但シ団体軍人学生等二銭又ハ一銭
陳列品 仏像四十七点 勅額二面 縁起巻軸二巻 法衣三肩
板碑一枚 秀吉禁制一枚 計六種類 五十六点
設立の目的 信仰ノ普及、信念ノ培養ノ為メ、教化史料ノ参考
ニ供シ、併セテ寶物保存ノ資ヲ助ケレム
建物状況 本堂観音堂ノ一部ニ陳列セルヲ以ッテ未ダ特別ノ
建物ヲ有セズ
以上の内容から当時の状況が少しだけ分かります。
宝物陳列所として独立した建物はなく観音堂の一部を使い、信仰の普及と教化を目的として展示を行っていました。お寺にお休みがないように、宝物陳列所もまた365日開館していたようです。
前年度の観覧者数が10万人というのは信じがたい数字ですが、事実なら今のミュージアムより賑わっていたかもしれません!
観覧料は一人5銭。その当時、アンパンひとつが5銭だったので、アンパンと同じ値段!今でいうと、約100円といったところでしょうか。しかも、軍人割引というものがあったところに時代を感じます。
展示品の種類をみると、仏像は三十三応現身像・懸仏五面(当時六面のうち一面は鎌倉国宝館へ寄託中)・その他の像、勅額二面は寺号額と祈祷額、縁起巻軸は長谷寺縁起絵巻上・中巻、法衣は不明、板碑は弘長二年銘のものかと思われます。秀吉禁制は天正十八年のもの。
この翌年(昭和10年)の調査票では、板碑が3点増えて、計59点を展示していたようです。法衣と禁制以外はどれも観音ミュージアムでご覧いただけるものばかり。このあたりあまり変わっていませんね。笑。
さて、観音ミュージアムが開館した昨年まで、長谷寺に伝来する大型懸仏六面のうち、一面は鎌倉国宝館に、二面は奈良国立博物館に預けられていました。鎌倉国宝館へは昭和三年(1928)に、奈良帝国博物館(奈良国立博物館)へは昭和14年(1939)に寄託されました。どちらも展覧会に出品したことがきかっけと考えられますが、一方で災害や戦争による罹災を防ぐための措置であったとみられます。戦争が終わり、時が過ぎ、寄託のままになっていたものが、87年ぶりに、観音ミュージアムでようやく六面が揃ったというわけです。長い間離ればなれになっていた懸仏が感動的な再会!このドラマチックな物語を、ぜひミュージアム二階の懸仏の前で思い出し、その感動に浸ってみるのはいかがでしょうか!
今回は、明治28年にできた宝物陳列所や長谷寺のちょっと昔をご紹介してみました。
次回もお楽しみに!
学芸員O